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鴻池屋も仰天大阪商人淀屋辰五郎

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写真は大阪中ノ島淀屋橋



 昨日(3月26日)の日本海新聞に次のような記事が載っていた。
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 江戸時代に米の先物取引の舞台となった大阪の「堂島米会所」復活を---。
関西商品取引所(大阪市西区)は、戦前まで続いた米先物取引を
2・3年以内にも復活させようと取り組みを活発化させている。
それにつれて東京穀物・中部の各商品取引所も先物取引の復活を目指している。
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ここに書かれている先物取引とは、
世界を支配したユダヤ商人も考えなかった取引で
大阪商人淀屋辰五郎が世界で始めて考え出した商取引の形態です。
具体的には例えば春に秋に収獲する米に相場をつけて買い付けることです。
この事により米相場の暴騰・暴落を防ぎ相場を安定させ
淀屋辰五郎は、わずかな歳月で莫大な富を築くことになる。


http://www.pleiades15.net/yodoya.htmlより
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□ 淀屋辰五郎


生没年未詳。元禄期の大坂の豪商。
世に淀屋辰五郎として知られ文学作品にも登場するが,
淀屋(岡本家)の系譜には辰五郎を名のるものはなく,
時期から見て5代目三郎右衛門が該当する。
淀屋は,元祖与三郎常安が大坂開市時に北浜に来住しのち
徳川初期に中之島を開拓して移った。
はじめ豊臣,後に徳川政権に接近し林木調達などの官用を務め巨利を博した。
また糸割符にも手を出し,あるいは諸大名の蔵米を換金する
蔵元としても活躍するといった大坂を代表する豪商であった。
淀屋辰五郎は、日本全国を歩き地方では米が余り
大都市大阪には米が足りない事に目をつけ米取引を考える。
大阪中ノ島に米の取引所を作り世界で始めて(米の)先物取引を始める。
先物取引と言うのは、たとえば春に秋収穫する米を買う事です。
5代目三郎右衛門は部屋を珍寄なガラスでつくったと言われるほど贅を尽くしたが,
1705年(宝永2)に度を過ごした驕奢で
闕所・所払いに処せられ淀屋の栄華にも終止符が打たれた。
 

□ 闕所と辰五郎


5代目淀屋三郎右衛門(廣當、通称辰五郎)が莫大な淀屋の家督を引き継いだのは
元禄15年(1702年)のことでした。時に辰五郎14歳。(17歳という説もある)
その3年後の宝永2年(1705年)、淀屋は闕所(けっしょ)となります。
つまり、財産をすべて没収され、大坂から所払いとなってしまうのです。
その理由が「町人の身分に過ぎた振る舞いがあった」というものでした。
たしかに、辰五郎はわずか1年半の内に1万貫(現在の価値にすると約100億円)にものぼる
遊興費を使うなど、目に余るものがありましたが、それだけの理由で
天下の豪商を取りつぶすのは、あまりにも横暴極まりない処罰だったといえます。


□ 闕所の本当の理由


闕所となった本当の理由は明らかになっていませんが、
上方以西の大名で淀屋から借金をしていない者はないと言われるぐらい、
4代目重當の時代から大名貸しが盛んに行われていました。
その総額は20億両ともいわれており、
現在の価値に換算すると120兆円にものぼるものでした。
そして、その債権によって諸大名が淀屋に対し
抜き足ならない状況に追い込まれていました。
そこで幕府は、諸大名の窮迫状況を救うため、倹約令違反という口実のもとに
淀屋を取りつぶしたものと考えられています。


□ 再び八幡の地に


闕所、所払いとなった淀屋辰五郎は宝永6年(1709年)、
大阪の地を離れ、江戸に潜行します。
そして6年後の正徳5年(1715年)、日光東照宮100年祭の恩赦で
初代淀屋常安が徳川家康から拝領した
八幡の山林300石が淀屋に返還されます。
そしてその翌年の享保元年(1716年)に辰五郎は八幡に帰ってきて
男山のすそ野に近江八幡柴座の地に住まいを構えました。
淀屋辰五郎旧邸跡の碑が建っている所には、
辰五郎が住まいしていた当時の門だけが残っています。


□ 辰五郎、八幡の地に眠る


淀屋辰五郎は、八幡に帰ってきてから1年後の享保2年12月21日、
30歳(35歳の説もあり)の若さでこの世を去り、
石清水八幡宮を勧請した行教建立の神應寺墓所に眠っています。
桂川、宇治川、木津川の三大河川が一望できるここには4つの石碑があり、
そのうち3つは2代目の淀屋个庵(言當)、3代目箇斎、 3代目の父にあたる
五郎右衛門(二代目言當の弟)。
しかし、この3人のお墓は大阪の大仙寺にありますので、
ここにある3つの石碑は墓石ではありません。


□ 辰五郎、戒名の謎


その3つの石碑の左手に、ひときわ小さい墓石があります。
これが辰五郎のお墓です。 先代の石碑と比べてもかなり小さく、
豪商の面影を見ることはできません。
これは、闕所となった自分を先祖に詫びているのてしょうか。
また、この墓石に刻まれた辰五郎の戒名の「潜竜軒咄哉个庵居士」。
「竜」は辰五郎の「辰」と解するのが正解だと思われます。
「闕所という処分を受けて、今はこの身を潜めてはいるが、
いずれ世に打って出てやるぞ」と、
辰五郎の強い意志が伝わってくるではありませんか。
また、辰五郎は邸宅に杉山谷不動尊に近い
「ひきめの滝」あたりから竹の樋を使って邸に水を引き、
楽しんだという「砧の手水鉢」が松花堂庭園内の書院前に今も残っていて、
栄華を極めた淀屋の夢にふれることができます。


□ 淀屋辰五郎と鳥取県倉吉市


淀屋辰五郎は、江戸時代前期の大阪を日本一の商都にした功労者である。
ところが1705年幕府は未曾有うの豪商になっていた淀屋を財産没収・追放にした。
取り潰しを悟っていた先代当主は、隠密裏に鳥取藩池田公の内諾を得て
鳥取県倉吉に番頭を派遣し米屋「牧田淀屋」を開いた。
その後、子孫は主家の遺志を継ぎ4代目からは大阪で「淀屋清兵衛」を公称していた。
この淀屋が明治9年に突然倉吉と大阪の店を処分し朝廷に献金した。
牧田家過去帳の八代孫三衛門記名の余白には
謎の5文字「世代万々歳」と記されている。
大阪町人の執念と時節到来までの190年間守り続けた
鳥取県人の誠実さが交錯して見える。
また6年後には橋津の下天野屋吉兵衛が、鳥取藩士20人を長州に送ったという。
討幕運動の先駆者光格天皇の御生母は倉吉の大鉄屋掘尾家の出で
牧田淀屋とこの3家は、濃い姻戚関係であった。
倉吉の「牧田淀屋」には公開されていない淀屋関係の資料が多くあると聞く。
公開が楽しみである。
by WAC06068 | 2005-03-27 19:47 | 鳥取県の歴史
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